十界の生命
我々は現実の生活に於いて、様々に喜怒哀楽、希望や絶望等の多様な

感情の中に生活している。しかし、この様な多様に起滅している感情も、生

命と言う基盤が感じている実感から観ると、十の範疇にある。例えば、「欲

しい」
と言っても自動車であったり、靴であったり、大臣の椅子であつたり、

食物であったり、恋人であったり、その他様々な局面がある。これ等それぞ

れは違う場面ではあるが、「欲しい」と言う渇きを感じている生命の状態は同

じであり、仏教ではこの状態を餓鬼界と名付けている。これに準じて名付け

られた範疇が他に九界あり、併せて「十界」の範疇に全ての現象は収まる。
地獄餓鬼畜生修羅声聞縁覚菩薩
地獄界 自らの力で跳ね返す事のできない閉息状態にあって、にえつく様な苦しさを感じている境涯 地獄の様な、と、言われる状態はまさしく地獄界である。
餓鬼界 上の所で説明をした欲する状態。
畜生界 我々も動物としての側面を持っており、その動物的側面だけに囚われて、人間としての英知のかけらも発動していない状態 大を恐れ、小を侮る犬や猫並の状態。
修羅界 他に勝ろうと葛藤している状態、特徴として自らを実体より大きく見せょうとする。修羅の巷と言うのもまさしく修羅界の現象である。
人界 欲望もコンスタントに満たされ、平らかな状態。
天界 まさしく天にも昇る状態の時、しかし、この状態は長続きしない。足が地につかない状態。
声聞界 上の六種の状態を六道と言って、欲望を中心にして次々と順序不同に変化する状態を六道輪廻と言う。この欲望に振り回された生活を反省し、より良い主体を確立したい、と言う学習的態度、反省的自我。
縁覚界 芸術家等が作品に打ち込む三昧境から自然や事物の真理の一側面を悟る状態。
菩薩界 他の幸せを心から願う状態、例えば、子供が病気で苦しんでいる時、出来る事なら代ってやりたい、と思う親心は菩薩界の一部である。
仏界 これら九界の世界の全てが、妙法蓮華経と言う此の実在の世界を在り在らしめる一法が、包摂し、発動している事を事実として悟り、九界の衆生にこの事を説く者。

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 以上の十界の生命は固定的なものでなく、一瞬一瞬、次にどの界がくる

かしれず、順序不同である、こうした状態を十界のそれぞれが更に十界を

備えているとし、十界互具と称している。次にどの界がくるか知れない、と言

っても行為の習慣性によって概ねその界にあると言う傾向性がある、これ

を一般には業と称している。良い、幸せな界の業を深くしなければならない。

このような状態を十界掛け十界で百界と言う。以上の述べてきた事は生命

の内容の違い、と言う側面からの観かたである。
 また、統一的観点から観た時十如是となる。妙法蓮華経方便品第二

の「諸法実相 所謂諸 法如是 相如是 性如是 体如是 力如是 作如是

因如是 縁如是 果如是 報如是、本末究竟等」である。これ等は如何なる

形而上学的観念に依って構築された観念の色眼鏡も、日常的観念や価値

観にもとずく概念も排除して、如実に在るがままを具に観ていく仏教の姿

勢から割り出された現実そのものであり
十界の全てにわたる共通の範

疇である。この十如是と先の百界を一応掛けたとして千如是と言う。 詳細 

は十如是ペ−ジにゆずる。

 更に、具体的存在としての観点から三世間が提示される。五陰世 衆

生世間間 国土世間
である。五陰は個体の身心体系 衆生は十界のどの

衆生か、国土はその衆生が感じ、住する環境 、当然ながら十界衆生はそ

れぞれに違った世界に住している。例えば地獄界の時、光に満ちあふれた

晴朗な世界に居る訳はなく、焼けた鉄の中に閉じこめられた様な環境世界

にいる。この様な違いを国土世間と言う。世間とは違いのことである。

 ちなみに、地獄界は赤鉄 人界は大地 天界は宮殿、声聞界と縁覚界は

方便土 菩薩界は実報土 仏は寂光土と譬えられる。此の三つを先の千に

更に乗じて三千と言い、実在の全てを表している。つまり三千とは森羅万象

の事である。
 一念三千とは、森羅万象である三千を一念つまり自分が包摂している、

と言う仏法の極理である。しかし、この哲理は天台が述べたものであり、今

日、極めて一般に知られている為、それに沿って述べた。本門正宗は更に

一重立ち入った極意を述べる究極の宗門である。
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