自分
 仏教を修学する上に於いて、どうし
ても知らなくては境涯を深めようがな
い、という重大な認識がある。それは
、この世界の森羅万象は種々のもの
が雑多にそれぞれが存在する様に見
えるが、実はそうでなく、その全てを
包括した、唯、一法に因って在り在ら
しめられている、と言う事です。

森羅万象である十界三千については
十界の生命ペ−ジ
に譲りこれらを在り
在らしめている一法に就いて詳しく述べ
てみます。

 妙法蓮華経 無量義経説法品第二
に・・無量義は一法より生ず・・と、言う有
名な文言があるのはこの事であります。
また、この一法は無相である、と述べら
れている、つまり、姿形も、匂いも、音
も、味も何も無い一法である、と言ってい
るのであります。

 さて、この無相の一法に就いて無量
義経徳義行品第一
に「・・・・・・・

大いなる哉大悟大聖主(仏、生命)・・・

・その身は 有に非ず亦無に非ず、因に

非ず、縁に非ず、自他に非ず、方に非

ず、円に非ず、長短に非ず、出に非ず、

没に非ず、生滅に非ず、造に非ず、起に

非ず、為作に非ず、座に非ず、臥に非ず

行往に非ず、動に非ず、転に非ず、閑静

に非ず、進に非ず、退に非ず、案危に非

ず、是に非ず、非に非ず、得失に非ず 、

彼に非ず、此に非ず、去来に非ず、青に

非ず、黄に非ず、赤白に非ず、紅に非

ず、紫種々の色に非ず・・」と、あります。
 この様な述べ方でしか表せない実体とは如何なるものか、およそ日常的な 時間 空間の制約下
にある事象の概念の外の事であることは判る。これは自分(我)の事を述べているのであります。

 うえの・・・その身は・・と、言う所に ・・・自分(我)は、と、入れて読めば解ってくる。自分(我)と言う
ものは、有る、と言っても掴み出して見せる訳にはいきません、では、無いのかと言えば無い訳でな
く、ちゃんと前を見ていて考えたりしています。有に非ず 亦無に非ずであります。自分(我)の自分
(我)はこの宇宙の自分(我)と同じ自分(我)であり、他人の自分(我)とも同じ自分(我)であり、自他に
非ず
であります。また、自分(我)はこの宇宙と共に何時始まったか、何時終わるのか解らないのです
から生滅に非ずであります。この三十四の 非ず を以て示された実体は正に自分(我)の事なので
す。

 また、一念三千に於ける一念も自分(我)の事であり、この一念はよく使われている様な何かを成そ
うとしての一心な心、と意味でわ無く、何もなく普通の状態の自分(我)、と言った方が近い。三千とは
簡単に言えば森羅万象の事であり、この森羅万象は一念つまり自分(我)が包摂していると言う哲理
であります。しかし、これは静的なものでなく念々と発動し来るものです。
 また、法身如来と言うも自分(我)の事であり、妙法と言うも自分(我)の事なのであります。
 まさに仏法とは、この宇宙や他と一体になっている自分(自我)自身の事を説いているのであります。

 これ等、生命の同一性は一般論としてのコンピュ−タ−ネットワ−クと酷似している。全てての
コンピュ−タ−はそれぞれ個々に在るにも関わらず、同一のものとして振る舞える。この個である
と同時に全体と一体になったネットワ−クに例えれば理解し易いのではなかろうか。唯、生命(仏
法)に於けるネットワ−クは存在するもの何一物も残さず、全宇宙のネットワ−クである、この永遠
のネットワ−クはアクセス権等と言ったものは無く、すでに全てのものがフルアクセスで重なり合っ
ているのです。それに気付かないだけであります。

 日蓮大聖人は「一生成仏抄」と云う御述作に於いて、「・・・・・・抑も妙とは何と云ふ心ぞや
只我が一念の心思議しがたきなる処を妙とは云ふなり、思議しがたしとは心も及ばず語も及ば
ずと云う事なり。
然ればすなわち、起こる処の一念の心を尋ねみれば、有りと云はんとすれば色も質もなし、無し
と云はんとすれば様々に心起こる。有と思うべきにも非ず、無と思うべきにも非ず、有無の二の
語も及ばず、有無の二の心も及ばず。有無に非ずして、而も有無に編して、中道一実の妙体に
て思議及ばざるを名付けて妙とは云うなり。
この妙なる心を名付けて法とも云うなり。此の法門の思議しがたきをあらはすに譬えを事法にか
たどりて蓮華と名づく・・・・・・・・・」とあります。