本門正宗


 ある本に仮死体験のことが書かれていた。その
人の言われるには、もう死んだのだなあ、と思われ
て後、自我が各々の臓器に分裂していった、とあっ
た。果たしてそうなのだろうか、しかし、考えてみる
と土いじりをしていてミミズを二つや三つに分断した
とき、それぞれは同じ様に跳ね動いている、臓器も
同じ様なものであろう。
 これらの事を通して判ることは、我々の自我は我
々の身体に等しく分布していることがわかる。

 此の身体を二分し、さらに二分し、さらに・・・・・・・
としていき、およそ八十五回から九十回すればこの
宇宙の一切に通じた、基本的構成要素である原子、
さらに原子を構成する基本的要素に行き着きます。
この時点を、仏教では「有情(動物)非情(植物や
鉱物)一切平等」と言い表しています。
 当然、それは質量と、それに付帯した波動の存
在であり、心と体が接合した一極であります。自律
神経によつて統括されるものより、さらに中枢、つま
り全体的なもの、当然この自我は、甘いも酸いもな
いでしょう。
定かを極める事が難しい一点である、と、同時に全宇宙でもあります。それが「妙」と言う一極
であり、無量義経徳行品に三十四個の個の非定形を以て示された実体、つまり我等共有の一
  念(自分、我)でもあり宇宙全体でもあります。(つまり、この宇宙の自分(我) と自分(我)の自
分(我)は同じ自分(我)である)

 ある、といっても目には見えません、では無いかといえば厳然とありその「妙」の法(波動)
により我々は姿形をもち固有名詞を持つに至る、つまり、妙と妙に備わる波動(法)により、宇
宙の一切は生みなされ形をなしている。

 我々の一念(自分)はこの宇宙と共にいつ始まったか判らない、久遠元初という言葉がま
さに一番適当である。初めも終わりもなく常にある久遠元初の妙法こそ永遠の実体である。

 そして再び統治能力を無くして元の万物共通の妙法に立ち還るのを死と称しているのであ
る。しかし、自分と言うものは、初めも終わりもなくこの宇宙と共に続いててるのである。

 宇宙は我々の身体の皮膚の際まできている、否、全ての細胞の芯まで
宇宙そのものである。


◆ 渡辺 格(いたる)氏の小論文 「生命の科学」を評す◆

  氏は序論に於いてボルツマンのエントロピ−増大による宇宙滅亡説をあげこれを基調に
して説明をされ、文明はその途上の逆行現象である、と述べられている。
 氏が設定される宇宙論を是として、初めに「ある非常に大きなエネルギ−」があって、それ
が分散していき今日になったとしても、今までの年数は我々が思い描く事が出来ない莫大な
数になるだろう。亦、今日から宇宙が消滅するまでも計測不能の年数になるだろう。この様な
ことは殆ど問題とする必要はない事であり、氏は要するに宇宙有限説を述べておられるので
あろう。
 しかし、ここに於ける氏ののべ方は一般の人には、近未来に宇宙がその秩序を失い消滅
すると取られかねない。氏があまりにも著名な学者であるため、例え仮説として述べられて
も、事実として受け取られてしまう。教育を旨とする氏にあつては、尚一考を要する事であろう
か。
 世界観、宇宙観は、人類の歴史とともに様々に変遷してきた。その中でも大きなものをあ
げるとコペルニクスの地動説であろう。今日、科学における人類が知り得た事を基準にして、
様々な推測や仮説が成され、その全体像を統一的に説明する試みがなされている。しかし、
未だ科学の知りうる事は限られた部分にしか過ぎず、その全体像を把握するには無理があ
る。また新しい発見によって従来の見解は塗り替えられるであろう。

 本論にいつて、氏は分子生物学の日本における第一人者であられ、DNAにおける学識は
比類無いと思われる。しかし、読み進む内に、おや?と気がついたのだが、氏は生命というも
のを、妊娠年月日から死亡年月日までの個体の活動体系と捉え、また個体から個体への橋
渡し現象と捉えている。それ故、DNAをして物質から生命へと述べられている訳が判ったが
、それは早計である。極端な言い方をすれば、それは、消化器の構造や働きが判ったから物
質から生命への筋道がついたと言うに等しい。何故なら、DNAが種としての個体を構成する
全てに関わっているとしても生命それ自体ではないからです。

 また、何よりもDNA自体物質であって、物質と自我が接合するのはDNAをも構成する更
に基本的構成要素に於いてである。物質と波動が同一視される極小、極限のポイントに於い
てである。その極限のポイントは科学に於いても、今尚、定かを極める事が出来ない一点で
あると同時に全宇宙である。この宇宙の一切に普遍の極小の一点に備わる波動(エネル
ギ−)こそ生命と呼ぶべきものであり、DNAを備えている、いないに関わらず全ての存在する
物質の中枢をなしている。ここに言う中枢とはより細分化された全体、と言う意味である。

 これは、我々自身の中枢をもなしており、私は中枢的共我とも、中枢的共身とも呼ぶこと
にしている。当然ながら、この中枢的共身は時間空間の制約外の存在である。これは理論
上の帰結ではありません。自身の中に自覚できるものである。どうすれば自覚出来るか、と
いうと、あらゆる自分に染みついている既成概念を取り払えば自覚できるようになる。その
際、法華経は最高の指針となるだろう、否、法華経以外にはない。

 氏の言われる生命とは、この中枢的共身の波動に依ってDNAに従って、種としての個体
が姿形を顕し始めてから、再び個体がその統治能力を失い元の中枢的共身に還るまでを指
しており、つまり生命の持つ生を指しており、元の中枢的共身に還った状態を死と称している
のであり、生も死も生命の持つ在り方に他ならない。

 さて、その中枢的共身のエネルギ−は何処から来るのかは判らない。なぜあるのか、と
尋ねられても、この宇宙がなぜあるのか、と尋ねられたと同じで、あるからあるとしか答えら
れない。ただ存在する全てがそうであろうと思われるが、少なくとも人間に於いては、この中
枢的共身に指向性をもっている。
 ところが、まま、この指向性を失った者もいて、それはあたかも生命次元における自己疎
外といつた趣を呈し、個人であれ集団であれ、学者であれ、勤労者であれその活動力が低
下したり、精神異常をきたしたりする。いずれの場合も最終的には生きることに困難を感じる
ようになる。それは何に依って起こるかと言えば、観念形態がそれを否定する形になってい
る場合である。

 私はこの指向性を回復させ、はつらつとして、山あり谷ありの生を楽しみ切って生活される
ように、この指向性の回復作業と中枢的共身を事実として確認する事の手伝いが私の仕事と
心得るものである。 了