本門正宗の十如是について
十如是について
(1)妙法蓮華経方便品第二は、妙法蓮華経二

十八品(章)の内、妙法蓮華経如来寿量品第十

六とともに重要な品(章)で重要な哲理が説か

れている。

 「・・・・・・・爾時世尊 従三昧 安詳而起 告

舎利弗・・・・・・・・・・・・・止舎利弗 不須復説 

所以者何 仏所成就 第一希有 難解之法 唯

仏与仏 乃能究儘 諸法実相 所謂諸 法如是

 相如是 性如是 体如是 力如是 作如是 

因如是 縁如是 果如是 報如是 本末究竟等

・・・・・・・・」とあり、諸仏の知恵は甚だ深く広大

であり、一般の学問的知識を以ては、とうてい

知る事ができない。仏が成就している極めて希

な解し難いこの法は、仏と仏だけが窮め儘して

いる。世界の真実な姿(実相)はこの眼前に

るが儘の世界(諸法)こそ実相である
、と述

べている。

 しかし、私達は生活の上に於いて容易に在る

が儘の世界を見る事はできません。それは私

達の日常は此の世とあの世といった様な様々

な既成概念や、善悪等の価値観による色眼鏡

で世界を見ている為、在るが儘の世界を見てい

ないのです。日常の生活は相対世界にある為

抜きがたい対称概念もあり、これらの一切を排

除して観る世界の在るが儘こそ、実相である、

と云うのが諸法即実相つまり諸法実相という

事です。

 そうして、所謂諸 法如是 相如是 性如是 

体如是 力如是 作如是 因如是 縁如是 果 

如是 報如是 本末究竟等、と結んでいる。最

初の法如是、相如是、性如是、体如是が一まと

まりで、法は生命であり、相は生命の姿形で性

は内在する性質、体は法の相性を合わせた総

体、力は内在する力、作は前の力が外に働き

かける、因は現象の直接的原因、縁は因を助

ける間接的原因、果は因縁の働きの結果、報

は結果が外に表れる事、つまり、瞬時に備わる

生命の一貫したサイクルを本末究竟等と述べて

いる。しかし、この十如是の範疇が確定的に内

在すると思いこむのは、それ自体概念となり、
(2) 実体とかけ離れる。何処にも漏れる事が

無く首尾一致している事を順序立てて説明し

ている、と捉える方が実体に即している。

 さて、これに拠って何が判るか、と云うことで

あるが、今まで仏の仏界と九界の間には隔絶

があって全然違う存在と思っていたのに、全て

の現象は十如是であり、当然、仏の仏界も九

界も十如是で差別がなく衆生と同列の存在と

云うことです。即ち仏は仏界の衆生と云う事で

す。しかし、同列とと云っても仏界の衆生は人

間として最高の境涯にある尊い衆生である事に

変わりはありません。

 結論的に云えば、この十界の依報(住する環

境、国土世間)正報(五陰を構成する個体、衆

生世間)の一切、つまり世界の一切は何一つ残

さず妙法蓮華経という包括する一法の姿である

事を暗示している。

 さらに、妙法蓮華経方便品第二の長行に於い

て、仏が世に出現した目的は、衆生の仏の知見

を開き示し、悟らせ、入らしめる為であると述べ

ている。

 日蓮大聖人は諸法実相抄に「・・諸法実相乃至

本末究竟等云々、この経文の意如何、答えて云

く下も地獄界より、上み仏界まで十界の依正の

当体悉く一法も残さず妙法蓮華経のすがたなり

と云う経文なり・・・」と述べられている。更に・「

釈迦・多宝(仏界)の二仏と云うも妙法等の五字 

(・妙・法・蓮・華・経)より用(はたらき)の利益を

施し給う時・事相(具体的姿)に二仏と顕れて・・」

と述べられ、妙法蓮華経と云う本門の波動が本

仏で釈迦・多宝はそのはたらきとして顕れた迹仏

(実体の本仏に対しての影)の仏であると述べら

れている。「・・故に仏は用(はたらき)の三身にし

て本仏なり、凡夫は体の三身にして本仏なり・・

・然れども迷悟の不同にして生仏・異なる依って

倶体・倶用の三身と云う事をば衆生しらざるなり

・・・」と仰せられている。

 故に本因妙法、つまり、本門としてのべれば、

如々として来る法の如く、相・性・体・力・作・

因・縁・果・報 が究竟しているのである。