地涌の声
〜本迹について〜 福岡 生木利春
本迹について、たとえをもってわかりやすく述べてみたいと思いま。ここに大きい不透明な袋が
あります。この袋には神とか阿弥陀仏とか書かれ、中には一番大切なものが入っていると言わ
れ、人々は今日まで大切にしてきました。
次に、その袋の中に半透明の袋が入っていて、この袋は妙法蓮華経と書かれています。次に
その半透明を透かしてみると、中に南無妙法蓮華経と書かれた完全に透明な珠が入っていま
す。その南無妙法蓮華経と書かれた透明の珠には、死をあらわす妙法と書かれた玉と、生をあ
らわす蓮華と書かれた玉の二つが入っています。
さて、一番外側の不透明で神とか阿弥陀仏とか書かれた袋は、そのままでは中に何が入って
いるのかさっぱり判らず、大切にされながらも科学を初めとする興味津々の事柄が外にあって、
そっぽを向かれがちです。キリスト教や阿弥陀仏を崇拝する浄土教はこの不透明のままで満足
しているため、中身を知る縁を持たないのです。
フランツ・カフカという作家に「城」という小説があります。主人公は神の城に入る城壁の周りを
幾度も徘徊したが、ついに城門は見つからなかった、という内容です。この不透明の袋を開き城
の中に入るのは法華経の存在を知って可能となるのです。この城門を開き中に入る手引きが述
べられた教は他に無く、まさに法華経の独壇場です。
そて、この半透明な袋を透かすと中に南無妙法蓮華経と書かれた透明な珠が見えますので、
この珠を取り出すと、中には妙法という玉と蓮華という玉が二つあります。生死の二法をあらわし
たものですから、死をあらわす妙法だけ、あるいわ生をあらわす蓮華だけ入っている訳ではありま
せん。生と死が揃って尊いのです。
ところが、一番外側の不透明な袋にとどまるキリスト教や浄土教では死に価値の根本を置き、
生は罪であるとし、ひたすら死後浄土(天国)に往生する事を願うべし、と教えるのです。
生という現実を自らの人生に於いて前向きに捉え活かす事を阻む教えの何と哀しいことか、生
あるもの・形あるものに価値を認めない心の虚しさよ。念仏の唱名やキリスト教の祈りの哀調と、
大海原から砂浜に打ち寄せる潮騒の如き本門の題目は、断じて同じものではありません。
姿・形の中に神や阿弥陀仏がエッセンスの様にあるのではなく、姿・形あるものがそのまま、か
けがえのない実在なのです。この世界を苦しみに満ちた所と捉えるか、楽しみにあふれた浄土と
捉えるかは自分次第であり、眼前に広がる世界以外に別天地などないのであります。
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