仏教は人が生きる上での苦難を、生・老・病・死と大きく四つ挙げている、更に付随して八苦を挙げ四苦八苦として苦しみを網羅している。これらの苦しみの根本は死なのである。老いる悲しさも、病む苦しさも、その他、生きる上での様々な苦しさもその根本は死にたくないからである。日常生活の好嫌の感情の細波もその大元を質せば生と死を基準として起こっているのである。まさに死こそ絶対君主の様に人と社会を支配している根本条件なのである。

     この問題を間違いなく解消できるのは正しい生命観に立脚する本門正宗を措いてない。口に平和を唱えていても本当に平和な人間たり得るかは疑問である。正しく成仏と言う境涯になければ共に生きると言う生命内容にないからである。
    家族、或は国家という単位では運命を共にしようとするであろうが、他に対しては自らと自らの集団だけが生き延びようとして戦争をしたり、利己の追求に明け暮れるであろう。それは自らが生き延びると言う至上課題に基づくものであり、道徳的観念で統御出来るものではないからである。
    宗教戦争も亦しかりであり、自らの生きる根本を否定される事は自分の生きる事を否定された事と変わりなく、自分を守る為に戦うのです。それらを解決するのも、これらの宗教が神と云っているものの実体を述べた法華経に帰入する以外に根本的解決の道はない。価値観の多様を認め合うと云うことは政治的緊急避難であり根本的解決とはならない。

     法華経には「如来が如実に知見するところの三界の姿(相)は生死有ること無く、若は退、若は出である」と述べられている。この宇宙と共に我々は永遠である、と示されている。その永遠の生命の変化の姿が若は退(死)、若は出(生)であると、言葉を変えれば、本当は我々はこの宇宙そのものなのだと云っている訳です。
     更に人に限って云えば、今日に於いては地球上には約六十億個に分身散体したDNAが存在します。また、それを本質からみれば六十億人に分身散体した自分がいると云うことであり、その統括軸が本因妙大本尊である事は当然であります。
     全ての人間が我が身の内であるが故に、我れ慈父であり、多諸子息なのである。亦、我亦為世父なのである。一切衆生の異なる苦も、同一の苦も我が身一人の苦なり、と仰せの如くで、この自他不二の正しい認識にある時、共に生きる自然な生命発露が現れるのであり、自己を含めた正しい実体を知る事の出来ない事より生じる 貪(餓鬼界)瞋(地獄界)痴(畜生界)の総合作用による本因妙大本尊への不信の暗闇を無明と言うのである。人間の苦と不幸は此処に起因するのであり、本因妙大本尊を根本として本門正宗の信仰実践をする人こそ本当の平和的人間と言えるのである


     そもそも人権と言う考えはフランスに於いて確立された概念であり、その淵源はルソ−の自然主義思想にある。そして、アメリカ合衆国憲法に取り入れられ、敗戦と共に我が国にもたらされ、進歩的であるともてはやされている。
     ルソ−に於ける自然人とは、一人の人間を浮き彫りにする為に考えられた虚構であり、かって人間集団がその様な生活していた事実はない。
     そこまでして、一人の人間とその権利と言うものを明確にしなければならない背景は、キリスト教権力や王権に依って、人間が粗末に扱われ、それに反論する神聖な根拠がなかったからである。
     釈迦に説法とは思うが、少し申し副えれば、ルソ−に於ける自然人とは、自然に生きる人間においては、誰からも干渉されずに生きる状態であり、完全に自由なのである。と、その個人の持つ自由の一部を国家に提供し、国家はそのかわりに、その個人の生命や財産を守る義務を負う契約に依って成り立つとする、いわゆる契約国家論である。

     そこから導かれる結論は、その個人が提供する自由はなるべく小さい方が良いとするのである。従って、国家は泥棒の番だけすれば良い、とするのが夜警国家論であり、小さな政府の極点である。
     こうした事を実体の国家に適用した場合、巧く適応した人にとっては限りなく天国であり、適応出来なかった人には限りなく地獄なのである。例えば、労働基準法など当然無く人を使用する側にとっては何時間働かせても違反ではないのであり、働く側に取っては地獄の長時間労働で、賃金も最低の基準は無いのであり過酷な事である。

     これに対して、これではいけない、個人は健康で文化的生活を営む権利もあり、これは国家が保証すべきものであり、その富の分配も出来るだけ平等をにしなければならない、とする、社会性を重んじる方向を社会権と言い、先の自由権とは機能的には反する方向である、つまり、揺り籠から墓場までである。これが大きな政府であり、今日に於いては、これらの権利を併せて人権と称している。

     更に余談を付け副えれば、我が国は契約国家ではなく、文化的背景の違う所に欧米型の個人主義を持ち込んだ事によって、消化できづに身勝手や相互不信が生じている様に思われる。

     戻って、そも、ヨ−ロッパ社会の基調をなすキリスト教はカトリック・プロテスタントを問わず神聖で尊厳なるものは人間の外にあるとするのである。つまり、外道と言う事である。

     これでは、神は尊厳であるが、人間は尊厳では無くなるのであり、幾ら殺しても問題は無いのである。

     こうしたキリスト教を基調とする国が人権を掲げながら、事在るごに戦争をし、殺戮を平気でする矛盾は此処にある。 掲げる人権と言うものは方向としては間違っていない、確かに進歩と言えるが、明確な宗教的・哲学的根拠を持たない根無し草なのである。

    これに対して、佛教、なかんずく法華経は神聖で尊厳なるものは人そのもの内にあり、それを本尊として崇め奉るのである、欧米において人権と言う概念で追求してきた、その実体が明確に確立されているのである。しかも、それは選択肢の一つと言う様なものでなく、実生活の、孝、不幸を支配する法則の基準なのである。

     しかも、本門における、日蓮大聖人の佛教に於いては、社会規範としてこの実体を具現する方法まで明確なのである。そして既に存在するのである。

     しかし、過去の我が国がにおいても、今日の人権思想に並ぶ様なものは実現されていなかった。本門の時にこれらの事は一気に裏打ちされのである。今まで、かって無かった社会が実現するのである。そして、日本国から始り転輪するのである。

     世に人権運動家は大勢いる、また、佛教を基盤としての運動家や運動団体もある。しかし、これらの運動も究極の実体である「本因妙大本尊」を根本としなければ、扇の要が外れている様なものである。いくら量的な広がりをみせても、いくら言多くしても肝腎要が 自由裁量に成っていては、時間の経過のなかで変質してしまう。

     佛教を学ぶのは本因妙大本尊を知るが為であり、あらゆる人文的諸学を学ぶのは、其れと知らなくても本因妙大本尊の探求に他ならない。科学も偏った狭い切り口ではあるがその方向の探求である。

     巨視的に見た、未だ筋道の見えない未来の事を述べれば、平和を願い、その心情を表現したりする運動は限り無く尊い事であるが、本当に平和が実現するのは「世界連邦国家」が樹立する時であろう。南半球の人達は比較的合意を得易い条件を持っていると思われるが、問題は北半球の人達である。

     この「世界連邦国家」を支える背骨は人権思想では軟弱である。梵天・帝釈も来下して踏みたもう。日蓮大聖人の本門正宗で無くてはならない。