天母山行記
(1) 五月慶日開闢大法会に参加する為に
関東に行く事になった。この機会に、かねてか
らの念願であった富士門流の歴史に沿っての
古跡を自分の足で歩いてみようと思い自家車
を運転して東へ向かった。そして三日目の午
前中に富士市に着いた。

早速、甲斐の国破木井郷を離れて身延山久
遠寺を移した富士市依田原の地を訪ねた、い
わゆる、地名を以て通称大石寺の在った所で
ある。今はその大部分は日産自動車が所有し
ていて寿町という地名に変更されてしまってい
る。

重須談所、つまり東大坊はこれより東へ四
キロ程の所に中里と言う所がある、その中里
こそ日興上人時代に重須と呼ばれた所であり
、今日、北山本門寺を重須と言っているが北
山本門寺の所在の場所は日興上人時代は貫
間氏の所領であり、貫間と呼ばれる所であり、
石川氏の所領の重須ではない。

先の富士市依田原の大石寺と中里の重須
談所を併せて身延山久遠寺と号していたので
ある。しかるに富士宗学要集の著者、堀日亨
さんは身延山久遠寺と云えば全て甲斐の事と
思っておられた。
ちなみに身延山と云う号はこの様な地名が
在った訳ではなく、日蓮大聖人がその身を延
べる所と云う意味で称されたのであり、その
御魂が移動すれば当然、寺号も移動して当
然であります。

本山の開闢大法会も終わり、いよいよ富士
山本門寺の上坊(本門戒壇堂)が過去に建
立された天母山を訪ねる時が来た。私のこう
した思いを知った同士の岡野さんが案内役を
買って下さった。所用があって出発が昼頃に
なり沼津市に着いたのは午後三時頃であった
。途中の箱根峠は新緑が香り、葉陰のこぼれ
日を潜って走るつづら折れの道は何とも快適
であった。

地理の関係で、本門寺上坊焼き討ち事件
に依って大本尊や重宝が隠された士詠山大
(2) 泉寺や東光寺、井出の御穴を先に案
内してもらった。そして富士市の史跡、それか
ら富士宮市へ入った。即ち、徳川初期に岡崎
城主松平信康の孫娘、敬台院日詔が若くして
没した子息達の菩提を弔う為に創った大石寺
の在る所である。その大石寺から七キロ位、
東に天母山はあった。

山と云うよりまさしく天母ケ原と云った地形
である。一段高くなっている所に戒壇堂が在
ったと云う。岡野さんによれば最近まで礎石
が残っていたが、一時、創価学会がこの一帯
を買い占めに掛かり、全てを取り壊してしまっ
た。しかし、この買い占めは成功しなかった、
その理由はこの天母山の西端に法華道場と
云う宗教団体の本山があり、その買収が不
可能であったので買い占めた部分を富士宮
市に公園として寄贈してしまったとの事であ
る。
説明を聞いている内、日も暮れかかり、いき
なり荘厳な梵鐘の音が体に響いて来た、隣の
法華道場からである。梵鐘の音に魅せられて
法華道場を訪問した、老婦人がにこやかに迎
えて下さり、暫く法談を交わし本門の題目も
披露した。

天母山を下るに当たり、来た時より西側の
道を下り北山本門寺に立ち寄った。さすが江
戸城大奥の第一人者を後立として創られただ
けの事はある。

北山を後にして大石寺の門前を通り西山本
門寺に向かった。堀日亨さんは現代の大石寺
が敬台院に依って造営される以前から今の所
に在ったと思っておられた。それなら、一棟位
往事の建物が残っていてしかるべきであり、ま
た、あれ程、日興上人が厳しく命じられた大石
寺三個の重宝の一つだに伝えて無く、西山に
伝えていたがいつの間にか失った、と呑気な事
を云っている。
日興上人は三個の重宝の一個でも失えば大
法謗であると仰せられているのだ。
(3) 何故に過去に西山本門寺に伝えていたと堀さん
は云うのであろうか。?西山は日道上人の時代に日代
が法謗を犯し袂を分かった寺であり、大石寺三個の重宝
が日代に渡るはずが無いのにである。

ともあれ、「三個の重宝は」は日興上人のご遺命通り、
本因妙大本尊様と共に本門寺本堂に納められ、そして、
今日その本門寺の正統な血脈相承者、日了上人のもと
横浜の富士山本門寺に奉安置されているのである。こ
の大石寺三個の重宝を伝えている横浜の本門寺こそが
真実の大石寺なのだ。

その抜け殻、否、抜け跡となつた富士市の大石寺跡を
買い取って寺を建立し再度大石寺と称したのは日有師で
ある。しかし、既にその段階で大石寺には何物も存在し
てはいなかったのであり、全て日有上人以降の人々が集
めたものである。

西山本門寺に着いた時はもう八時近くであった。懐中
電灯でらしながら見て回った。此処は水戸光圀が肩入れ
をして今日の姿に成ったと聞く。

天母山(登り詰めた小高い所が上坊跡)
(4) 日蓮大聖人の御遺命であった王仏冥
合を条件とする本門戒壇の富士山本門寺は成
立して、正統大石寺の本因妙大本尊も重須の
三個重宝も全て富士山本門寺に奉安された。

しかしながら、建武の中興の挫折に続いて
宮方は振るわず、武家方が権力を握ってしま
いついに天文年間に至り駿河の守護大名今
川義元と本門寺内の悪僧とが手を組み本門
寺上坊を焼き討ちしてしまった。

今日、西山本門寺にしても、北山本門寺に
しても、この条件を踏まえているからである、
それ以来日蓮大聖人の正統な法義とその重
宝はまさしく白法穏没の態として後醍醐天皇
の正裔に依って護られて来たのであり、覇権
主義の武家権力に日蓮大聖人の法義は絶対
に認める事のできないものでありました。

現代、日蓮法華と称しているものの全ては
幕府が認めた天台法華の亜流でしかなく、し
かも、時代が反転した今日に於いても、その
封建時代の中で曲げられた古垢を落とそうと
努力していません。

本門寺上坊焼き討ちと、その後の日蓮大聖
人の正統主義には少なからぬ消長があったが
中でも駿東郡井出の士詠山大泉寺と根古屋
大城の東光寺跡には動かぬ南朝事跡があり、
ここに日蓮大聖人の正統法義があった事は確
かである。

士詠山大泉寺は、大覚寺統の正裔である小
野寺左京の建立した寺で、現代は曹洞禅宗の
寺となっている。見学を申し込み、寺の墓所へ
回ると小野寺左京と刻まれた古い墓があった。
この士詠山大泉寺のさらに東へ五百メ−トル
程の所に、その先祖が建てた東光寺の跡が在
った。
(5) そこは日蓮正宗の堀日亨師が「富士
宗学要集第九巻」の第十章に異流義として紹
介した三超院日秀師が本門寺の再建を計画し
た所であり現代は建物は何もなく大泉寺末葉
、東光寺墓所と刻まれた石碑が入口に建って
いた。

墓域に入って見て回ると十六弁菊花紋が刻ま
れ、その側面に楠木氏の菊水紋が刻まれた古
い台石を発見した。

この地に於いて後醍醐天皇の正裔は日蓮大
聖人の法義を少しも曲げる事なく布教していた
のである。その事が幕府権力に依ってキリシタ
ン弾圧と同様な厳しい弾圧を受けたのである。

この時代は幕府の権力を背景にいわゆる身
延が諸山を従えていたのであり現大石寺と雖
も例外ではない。そして日蓮大聖人の正統な
法義を信仰した人々は幕府の手先となつた身
延や大石寺から三超派、異流義と呼ばれ大弾
圧を加えられ、全て破却されてしまったのであ
る。そして、その結果、小野寺左京による大泉
寺建立という事になつた訳である。

それから、大本尊様や重宝を隠し込めたと伝
える井出の穴に向かった。お穴は東光寺墓地
の西北四百メ−トル程の所に在った。大泉寺か
らは北北東に百メ−トル程のところである。

ごく近年まで井出の御穴参りは日蓮系の信
徒の人達に依って行われていたという。
この旅を通して感じた事は法華経の教えを理
解する為には時が大事である、と云う事であっ
た。どんなに頑張っても覇権主義時代の中では
大白法は広まらない。やはり後五百歳中という
今日でなければと云う思いを新たにした。
-了-

正統大石寺の在った土地の登記簿の一部へリンク4ペ−ジ

A氏の質問(字大石寺は大石寺が所有していたからである)に答える1ペ−ジ